12月16日 午前:高山右近について 高齢者大学校 清水秀司 講師

        午後:三好山(芥川山城のまち歩き)


キリシタン大名の代名詞のようになっている高山右近。わが高槻にも縁の深い戦国大名だ。武将としての能力のみならず築城の名人としての顔もあり、時の権力者たちに高く評価されていた。しかしその生涯は苛酷である。豊臣秀吉による「伴天連追放令」により信仰のため大名の身分を捨て流転の生涯が始まる。しかしキリスト教弾圧はこれにとどまらず、つづく徳川幕府による「伴天連禁教令」により国外追放の処分を科され、家族ともどもマニラに送られた。右近の名前は信仰のため地位財産すべてを投げうった大名としてマニラのイエズス会にも広く知られており、当地では大歓迎を受ける。しかし長旅の影響のためか到着から40日後に熱病におかされ1615年正月8日没する。その葬儀はマニラ全市をあげて10日間に及んだという。右近の信仰心には驚嘆するが、反面このことや、これも秀吉の所業だが長崎の二十六聖人殉教のこと、その他日本の信仰にからむ一揆などのことなども併せて考えると、人間はどこまで強固で揺るがない信仰心を持ち得るものなのか、とある意味恐ろしさも感じる。権力者たちが恐れる理由も分かる。信仰とはなんなのか? 現在も宗教問題が世間を騒がせている。

【高山右近について】

講師の飾り気のない独特の語り口が面白い

高槻城近くのキリシタン墓地から出土したロザリオと右近の手紙

松永久秀の家臣であった父・高山飛騨守と共に大和国・宇陀の沢城に入りその地で洗礼を受けた。12歳だった。

二十六聖人殉教のこと。彼らは京・大阪で捕縛された信者たちだ。処刑は長崎の西坂の丘の上。ゴルゴダの丘に似ていると信者が望んだとか。厳冬期にそこまで歩かさた。その前に耳を切り落とされたそうだ。秀吉も酷いことをする。

 


秀吉の中国大返し。明智光秀の謀反で信長は本能寺で討たれ有名な秀吉の中国大返しにつながっていく。光秀は配下として高松に進軍中の右近の協力を期待していたが、右近は信長横死の報に急ぎ兵を返し、高槻に戻ると秀吉の幕下にかけつけ、光秀の思惑は外れた。やがて起こった山崎の戦いで右近は秀吉軍の先鋒を務め奮戦した。


【三好山 (芥川山城のまち歩き)】

三好山は図中赤丸のところ約180M

       CDの説明に聞き入る

    出だしから登りだ。結構な勾配だよ


サクサクと落ち葉を踏みしめて歩く音が心地よい

      柿の実が残っている。木々の名残の紅葉も



頂上に近づいてきた。あとひと息

   見晴らしはどうですか?

やっと着いた。180Mなんか山ではなくて丘だと舐めていたが、日頃の不摂生が祟ってヒィヒィ


                              ベリーグー ナイススマイル

三好長慶のNHK大河ドラマ化へ向けて徳島と関西が共同でNHKに対して要望活動をしている。信長や秀吉に先駆けて天下人となった武将だからぜひ放映してほしい。あの当時天下と言えば近畿一円のことだ。長慶は近畿圏の覇者だった

  三好長慶公御社

   さぁ下山。 山は登りより下りが要注意